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4年がたって (2)

昨日の続きです。

 

中庭に避難した後にも大きな余震があり、地面が揺れるという今までに経験したことのないことも経験しました。その後、校舎に荷物や靴などを取りに戻り、耐震強度を満たしている体育館に移動しました。その頃から、歩いて帰れそうな人たちは帰り始めていました。私の家は学校から少し遠い10kmの距離がありました。この頃から今日は帰れそうもない人たち、今では馴染みのある、「帰宅困難者」が発生していました。私は帰宅するかとどまるか迷っていました。なぜなら、私の家は海が近いところにあり、当時、相模湾津波注意報だったのが時間が経つごとに津波警報大津波警報となっていたからです。今では家の周りのどこら辺が大体海抜何mかは知っていますが、当時はそのようなことは知らず3mの津波で家のほうは大丈夫なのかと心配していました。また、中学時代に相模湾はお椀の形をしているから津波は何度もやってきやすい地形で…などと何回か災害、特に津波について聞かされていたことでさらに不安でした。

 

体育館に移動してから、電話は繋がらないし、新たな情報はないということで暇でした。しかし、ある先生がワンセグ専用の小型のテレビを持っていたので一緒に見せてもらうことができました。実は自分もガラケーだったのでワンセグはついていましたが私の高校はワンセグが入りにくく繋がらないので使っていませんでした。ワンセグから得られた情報は千葉の石油コンビナートが爆発している映像でした。それも衝撃的なことでしたが、それよりも今まで見たこともない津波の映像にあっけを取られました。ここで、私は事の深刻さを理解しました。

 

その頃は電話もつながらないメールも来ないという状況でした。実のところメールの送信はできていました。しかし、自動受信の機能が停止していたのかメールは新着問い合わせをしないと受信できない状況だったためメールが使えないという感じの印象を持たれた人も多かったのではないかと思いました。私は4時前に幸運にも母親と電話が繋がり、無事だということと家は大丈夫だということが確認できました。そのため、歩いて家に帰ろうと決心しました。

 

2. 歩いての帰宅

 

私は何度か自転車や徒歩で学校の周りなどを散策したことがあったので頭の中に大体の地図が入っていたためそんなに迷うこともなくほぼ大通りを通って直線距離で帰れるだろうと思っていました。

 

学校を出たのは4時半ぐらいでした。その時同じ方向で道があまりよくわからないという人が3人いたので一緒に行ってあげることにしました。大体30分弱で一つ目のポイントである駅に着きました。駅には人がたくさんおり、みんな何とかして家に帰ろうとしているんだろうなと思いました。ここで思わぬことがありました。30分ぐらい前に先に学校を出た集団と会ったことです。彼らは道がわからず迷っていてやっとたどり着いた感じでした。ここで、ある程度の地図は確認したり、実際に歩いてみたりして置いたことがこんなに役に立つんだということがわかりました。その後その彼らも先導して次のポイントの駅まで連れて行ってあげました。ここで、方向が分かれたりしました。私はここでも家に電話が繋がり、父親がちょうど会社から帰ってきてその駅の近くまで迎えに来てくれるということだったので実際に歩いたのは7kmほどでした。

 

自宅のほうは停電していませんでした。歩いている途中停電の境目があり、ここから先は停電していないのかとくっきり分かれていたのが印象的でよく覚えています。

 

その当時から僕はモバイルバッテリーのようなものを持ち歩いていたのでとても役に立ちました。そのようなものの重要性が知ることができました。

 

3. その後

 

家についた後はテレビから流れてくるものをこの世のものなのだろうかと思いつつ見ていました。その次の日からは、物不足が始まりました。お店に行ってもほんとにないものはないみたいな感じになっていました。原発事故に伴う計画停電があったりと非日常がしばらく続いていた感じがありました。

 

今回、あの時のことを思い出してみて、段々だけど記憶が薄れてきているな、あの時感じたことが忘れてきているなと思いました。このように感じたことをできるだけ忘れないようにして、いろんな人とこのような時の話をしたりして忘れないようにしていくことが重要なんだと思いました。